福島便り of うつくしま

心が壊れてしまわないために

我が村、飯舘村が放射能によって汚染されてしまったと知ったとき、すぐに思い出したのが、十年ほど前に観た『アレクセイと泉』でした。『もう一度あの映画が観たい』その思いは日々募り、知人を通じてフォーラムに伝えてもらいました。

 私は七年前に結婚を機に名古屋から飯舘村に移住して、四年前、夫彰夫さんを癌で喪ってからは、友人たちに助けてもらいながら森に囲まれた家で一人で暮らしてきました。
 この場所には彰夫さんと暮らした三年間の宝石のような日々、彼を喪った後に友人たちと過ごした愉しい日々の記憶が充ち満ちています。この四年間、私はこの自然の美しさに癒され、優しさに守られ、厳しさに鍛えられて喪失の悲しみになんとか耐えて生きてきました。彰夫さんは最期の九日間をこの家で過ごし、ここから旅立って逝ったのですが、病院から戻り『ここは天国だ』と何回も呟き、末期癌であったにも関わらず、痛みで苦しむこともなく穏やかな日々を送ることができました。たとえ、放射能に汚染されていても、ここは私にとって、彰夫さんの魂が宿る『天国』であることに変わりはないのです。
 村が計画的避難区域に指定され、『もう戻れないかもしれない』と思ったら涙が止まらなくなり、このままこの場所を捨ててしまったら心が壊れてしまうだろうと思いました。しばらく泣いた後に『井戸を掘れるようになったら帰ろう(地震で水が充分には出なくなってしまいました)』と心に決めたら落ち着きを取り戻すことができました。

 確かに、今回降り注いだ放射能によって『ただちに健康に害はない』のかも知れません。けれども、目に見える物は何一つ破壊されていない、この明るく美しい放射能地獄の中で、避難地域だけでなく福島のすべての人たちが、真綿で首を絞められるような苦しみに苛まれ、翻弄されて、心が壊れてしまう危険に曝されています。人は心が壊れてしまったら生きることが困難になってしまうのです。 このことこそが、原発事故による放射能汚染の最大の恐ろしさなのではないかと思います。

心が壊れてしまわないためにはどうすればいいのか・・・。
 『アレクセイと泉』にはその答えの一つが映っているように思います。だから今こそ福島の人たちとこの映画を観たいと切望しています。
 壊れてしまうことなく生き延びてこそ、『アレクセイと泉』の登場人物たちのように、私たちは、世界に向けて、魂の言葉を発することができるのだから・・・。

        2011年5月15日         飯舘村にて   小林麻里

麻里さんを訪ねられた高野先生のブログより抜粋


麻里さんのおうちの水の水源は森の中の井戸である。そこから数百mのパイプを通って台所にたどり着く。この水は飲めるだろうか?不安な麻里さんに朗報が届いたのはごく最近のことだ。広島大学の先生が水の分析をしてくれて、汚染されておらず、飲んでもよいということがわかったという。
 麻里さんはここに戻って来たいと考えている。放射能によって命が縮まるかもしれない。でもそれで不都合は何もないという。「私には避難する理由がないの」と麻里さんは笑う。「彰夫さんのところに早く行けるかもしれないから」。この地でたくさんの生き物たちに囲まれて、その一員として過ごしたいという。
 放射線によるもっとも深刻な害は「心が壊れてしまうこと」。だとすれば、放射線の被害にたちむかう最善のやり方は、心を壊さないように、心豊かに過ごすこと。見たことのないレベルの放射線量の数値と、美しい里山の風景を見ながら、この場所はもはやひとつの聖地なのだと思った。

http://blog.goo.ne.jp/daizusensei/e/7d92d7ca72768a62c9eafb7cf66449fb
http://blog.goo.ne.jp/daizusensei/e/4b32157625fa39f4b3a8b7458bf09a4c

だいず先生の持続性学入門

存在するけど、存在しない  2011・夏                

2011.7・18 小林麻里

7月も半ばを過ぎました。福島も連日35℃を超える猛暑が続いています。飯舘は高原地帯で遮るものがないので、晴れれば日中は35℃前後まで上がりますが、どんなに暑くても風はさわやかですし、3時を過ぎれば涼しくなります。避難先は福島市の郊外の阿武隈川沿いの崖の上にあり、福島駅周辺よりは自然豊かで涼しいのですが、暑さが苦手で、7年間ですっかり飯舘の気候に慣れてしまった私にはとても耐えられない暑さです。飯舘生まれの村民のみなさんは、避難先で、私以上に暑さに参っているのではと思うと心が痛みます。今日は涼しい飯舘に避難してこの文章を書いています。


水が入った田んぼには、おたまじゃくし、ゲンゴロウが泳ぎまわり、小さな蜘蛛たちまでが忙しく水の上を歩き回っています。ターコイズブルーや黄色に赤い模様のある美しい糸トンボ、シオカラトンボ、深紅の赤とんぼたちが飛び回り、我が家の田んぼビオトープは望みどおりの生き物たちの楽園になりました。

 ほんとうならば、今年も友人たちと米作りをしているはずでした。一人になってしまって途方に暮れている私を励ますために地域通貨の仲間が集まってくれて始まった米作り。不耕起、無農薬、手植え、手狩り、天日干しの自然米に3回目の挑戦をする予定でした。今ごろは汗だくで草取りをした後に、バーベキューをして蛍狩りに、蓮の花見に、花火にと、子どもたちも来てわいわい賑やかに過ごしていたことでしょう。

 みんなで一生懸命植えた早苗が、日増しに青々と育って風になびく田んぼの景色を、二階の窓から眺めるのが大好きだった私にとって、カラカラに乾いて草だけが生え、誰も来なくなってしまった田んぼを見るのは身を切られるような悲しみでした。

 けれども、こうして水を入れて生き物たちの楽園にしたことで悲しみが半減しました。毎週末には必ずここに帰って来て、田んぼの中を歩き回り、生き物たちの世界に触れることで、どれほど支えられていることでしょう・・・以下、帰った日に書いた日誌から抜粋します。


7月2日 取材の方たちと蛍狩り。残念ながら蛍は昨年よりもかなり少なかった。水を溜めるのが遅かったせいか、セシウムのせいなのか、まだ時期が早すぎたのか(昨年の蛍狩りは3日だったけど・・・)理由はわからない。でも、カエルの大合唱はすごくてうれしい!


やっとすべての田んぼに水が溜まる

びっしりと水草の生えた田んぼビオトープの中を歩く

夜の暗闇の中 

朝の光の中

限りない水の快感

このまま、この重たい肉体を脱ぎ捨てて 

この水の中に溶け込んでしまいたい


 そんな思いに囚われて、このまま消えてしまって楽になりたいと思ったけれど、次の瞬間にタビ(愛犬)のつぶらな瞳と猫たちの姿が目に浮かび思い止まる。そして彼らが待つ避難先へ帰る。


7月10日 今日は久しぶりに一人で飯舘へ。日中は暑かったけど3時過ぎたら涼しい!溜池に鴨の家族が暮らしているようだ。青サギもやってきていた。あーあ、ここは生き物たちのワンダーランド。放射能汚染など関係がない!私はやはりここに帰って来よう。

 避難して無人になった途端にイノシシたちにすべて耕されてしまって、ほとんど蓮が消えてしまった蓮池に、夢のように美しい小さな白い花が浮かんでいた。私は言葉を失った。あーあここはやっぱり天国なんだ・・・これまでは蓮の葉っぱの陰で密かに咲いていて見ることができなったのかもしれない。蓮の花も数年経ったらまた増えて観ることができるようになるだろう。かえって間引かれたことで大きな花が咲くかもしれない。イノシシさんたちありがとう!

 私の心の中から放射能は消えた。私の目に映る、愛する我が家の風景から放射能は消えてしまった。

存在しているけど、存在していない。


7月16日 今回の帰宅の目的の一つは“蜩(ひぐらし)シャワー”を浴びること。帰りに林道の途中で車を止めて森の中を歩く。あーあ、なんという心地よさ!今年も変わらず蜩たちは生まれて来てくれて、短い命を燃やしている。蛍もおたまじゃくしもトンボも山椒魚も、放射能に汚染されてもちゃんと生まれてきてくれて、私がいない間もこの場所で命の営みを続けている。そのことが悲しみから私を救ってくれている。だから私は彼らに出会うために毎週末必ず我が家に帰って来るのだ。私の身体は避難先にあっても、私のたましいは我が家で暮らす生き物たちと共にある。私の心の中にはいつも田んぼビオトープの水の世界が無限に広がっている。その世界にはもはや放射能は存在しない。あるけどない。

 汚染されているのはあの場所なのではなくて、こんなことが起こってしまってもなお、経済成長のためには原発は必要と思い込んでいる私たち人間の心なのだと思う。私たちひとり一人の心の中の汚染を消さない限り、放射能汚染はどんどん広がり続けるだろう。私たちひとり一人の決意にすべてが懸かっている。


 さて、今年もカシスとブルーベリーが熟しました。今年はさすがに収穫はあきらめようと思っていたのですが、世話もせず、肥料もやらなかったのにいっぱい実をつけてくれたことを思うと申し訳なくて、カシスはウォッカに漬けて、ブルーベリーは生で食べてジャムも作るつもりです。

「なにもわざわざ今年食べなくても」と思われると思うのですが、今年だからこそ食べたいのです。

今年だからこそ、蛍にも蜩にも、森の花々にも出会いたいのです。

彰夫さんが大好きなしだれ桜を観ることなく3月22日に旅立ったときに「今年は今年の花を観ておかないと来年は観られないかもしれない」と強く思いました。今回の放射能汚染によってその思いはいっそう強くなりました。それに私は人間が汚してしまったこの場所で懸命に生きているものたちと共にありたいという気持ちが強いのです。“一蓮托生”が今一番好きな言葉です。

まあ、数十年後にガンの確率が数パーセント上がるといっても、遅かれ早かれなんらかの病気で必ず死ぬのだから、たいしたことはないかという思いがあります。40歳以上ならそんなに気にしなくてもいいかなとも思っています。先の病気の心配のために、今一番大切なものを手放したくないという思いもあります。

それくらいの覚悟がないと、ここ福島では暮らせない、ましてや飯舘には帰れないと思います。
子どもや、これから子どもを産み育てる若い人には決して当てはまりませんが。

 ところで、作ったものにはすべて、原子力マークと「ただちに健康に害はありませんが、極力摂取を控えてください」という、ビミョーなラベルを添付して、一般の方の口には入らないように注意しますので、ご安心ください。

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2011・夏 Vol.2               

8月2日 小林麻里

今日は火曜日ですが、週末は『アレクセイと泉』の上映会があったり、体調不調だったりで帰ることができなかったので、飯舘に帰って来て、蜩シャワーを浴びながら書いています。
 避難先の花立荘の周りでも蜩は鳴いているのですが、ここの蜩の声の方が美しいのはなぜなのでしょうか。深い森の奥から幾重にも重なって聞こえてくるからでしょうか。人工的な音がしないからでしょうか。
 帰って来る道すがら、村の花、山百合が咲いているのに何度も出会いました。森で咲く花々は密やかに咲いているものが多い中で、そのあまりに大きくて存在感のある妖艶な姿があまり好きではないのですが、今年は草ボーボーの道端で咲いているのに出会うと救われるような気持ちになります。
 そして、今日、やっとオニヤンマに出会うことができました。悠々と飛ぶその姿には惚れ惚れします。
蓮池にたった一つですが蓮の花が咲きました。昨年までは千本くらいは咲いていたのですが、たった一本だけ咲いてくれた花の有難さは千本の花にも匹敵します。

さて、今回はチェルノブイリの事故で汚染されて廃村になった村で暮らす、55人の老人たちとたった一人の青年アレクセイと、彼らのいのちを支えている汚染されていない100年の泉の物語『アレクセイと泉』を観て感じたことを書きます。観終わって最初に思ったのは「この映画ってこんなに楽しい映画だっただろうか・・・?」ということでした。そして、映画館の暗闇の中でいっしょに観た福島の人たちと笑い合うことができて、本当に上映会を企画してもらえてよかったと思いました。

7月31日 『アレクセイと泉』を観て
 このうえなく美しく、まっとうで、生きる喜びに満ち満ちた世界がそこには映っていた。
 悲しみの大地の果てに、こんな世界が広がっているなんて・・・泉の水が彼らの身体の中をいつも流れ続け、放射能汚染を超えた、いのちの神秘の世界と彼らをつないでいる。

私も帰ろう、いいたての我が家へ
 深く、深く井戸を掘って、いのちの水を手に入れて

どこで生きたって人生には困難はつきものだとするならば
私はいいたての我が家で生きることの困難を選ぼう
帰ろう、帰ろう、いのち輝く我が家へ!

 以前、名古屋で観たときと今回では、全く視点が違っていると感じた。今回、私は、森の奥の汚染された村に暮らす住人の一人として、じじばばとアレクセイと共に働き、笑い、歌い、食べ、泉の水を汲み、祈り、心の中で哀しみをかみしめた。
彼らと同じく、汚染地域の内側の人間となってしまったことはとても不幸なことなのだけれども、同じ苦しみを背負った者同士として、つながりを感じられたことには喜びのようなものを感じる。
 そして、こんな哀しみを背負うのは、もう、私たちで終わりにしなければと心に誓った。

 私の地区は放射能レベルが高い方なので、避難解除は遅れると思うのですが、村の一部でも解除になったら井戸を掘って帰りたいと思っています。二年を目処に考えて、避難生活を送っています。

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2011・夏 Vol.3              

8月15日 小林麻里

また酷暑が戻って来てしまいましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。飯舘も暑いですが、森を抜けて吹いてくる風はさわやかです。道添いではギボウシの薄紫の花が凛として咲いています。薄暗い森の中を歩いていて、そこだけが明るく光っているので何だろうと思って立ち止まると、陽だまりでフシグロセンノウの橙色の花が光を集めて咲いているのに出会えます。その他名も知らぬ花々が風に揺れています。気がつけば、溜池の周りにはススキの穂が出始めています。お盆を過ぎれば高原の村はもう秋です。

8月13日、ついに、飯舘村での浄化プロジェクトが根本さん、戸上さんが来て下さってスタートしました。飯舘村の元副村長、長正(ながしょう)増夫さんの畑の一角をお借りして、微生物、竹の粉末、炭を使っての実験と、長正さんのお宅の庭木と、小林宅のしだれ桜への微生物の散布の、二つの試みが行われました。

長正さんのお宅の北西側には、とても立派な針葉樹が立ち並ぶ「いぐね」(防風林)があり、いぐねに守られた田園の屋敷の美観が広がっています。いぐねがあるおかげで、夏は涼しく、冬は暖かいのだそうですが、針葉樹は葉が密集しているために放射能が溜まりやすく、屋敷の放射能が下がらないのは周りの針葉樹林が原因だと言われています。もしも放射能を減らすことだけを考えて、いぐねをすべて切り倒してしまったら、夏は直射日光が照りつけ、冬は寒風吹き荒び、非常に生活し辛い環境になってしまうでしょう。
長正さんは、先祖代々受け継いできた大切ないぐねを切り倒すつもりは全くありません。もしも微生物の効果が現われたら、自分のところのいぐねはもちろんのこと、村中の森にヘリコプターで散布すればいいんだとおっしゃっています。さすが、元副村長さんだけあって、言葉に力があり心強い。

そして、我が家のしだれ桜。家の真ん前にあり、2階まで覆い被さるように立っています。某大学の先生が見たらきっと「切り倒した方がいい」とおっしゃるでしょう・・・
このしだれ桜は、ここの前の住人のおばあちゃんが植えて遺していってくださったもので、樹齢は50年以上。彰夫さんはまるで自分が植え、育ててきたかのように自慢していました。今では私も自慢しています。
4年前、彰夫さんが桜の花を観ることなく3月22日に旅立った後しばらくの間、何をやって毎日暮らしていたのか全く記憶にないのですが、4月の終わりに桜が天から降るように咲き始めたとき、心から美しいと思い、その時から少しずつ生きている実感を取り戻していったように思います。それから毎年、この花が咲くと、厳しい冬を一人で乗り越えてきた自分への天からの贈り物のような気がして、また一年この場所でやっていこうという気持ちになれました。

ただ、ここ数年、花の数が減ってきているような気がして、木が弱っているんじゃないかと危惧していたので、微生物を散布したことで、放射能にはすぐには効果は出ないかもしれませんが、木は元気になるんじゃないかと思います。散布後、周りの空気が清浄になったと感じたのですが、桜もきっと喜んでいることでしょう。来年はぜひお花見をしましょうと盛り上がりました。


長正さんのいぐね、私のしだれ桜だけでなく、村民のみなさんひとり一人に、きっと大切な木や森があると思うのです。それらは私たちの生活だけでなく、精神的な支えにもなっているかけがえのないものだと思います。
私たち村民も、村の自然も、充分すぎるくらい充分に汚され、奪われて、傷ついています。放射能を除染することは村民の悲願ですが、さらに私たちの心や自然を傷つけるような方法で除染を行うことは、たとえ即効性があり効果的であっても、やるべきではないと私は思います。これ以上傷つけられてしまったら、私たちはいったいどうやって生きていけばいいのでしょうか・・・。

今回の実験の結果は未知数です。効果はあっても即効性はないかもしれません。けれども、遠く名古屋から来てくれて、自分たちのことのように汗を流してくれる人たちがいる。そのことだけで、どれほど心が救われているかわかりません。心を救う復興こそが、合理性や即効性よりも何よりも大切なことではないでしょうか。

今、スタート地点にやっと立つことができたばかりの小さな小さなプロジェクトですが、みなさんの心を結集すれば必ず実を結ぶときが来ると信じています。これからも応援よろしくおねがいします。

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かけがえのないもの                     

 わが村、飯舘村が放射能に汚染され、計画的避難地域に指定されたと知った時、「村が荒れ果ててしまう」と私は泣きながら村の友人に電話をしました。するとその友人は「数年間は田んぼも畑もできないから農薬も化学肥料も使われない。それは人間の目から見れば荒れてしまうということだけど、自然から見れば美しくなるということなんじゃない。」と言いました。私は目から鱗が落ちるような思いがして、米作りができない田んぼに水を入れて「田んぼビオトープ」にして、生き物たちの楽園にしようと思い立ちました。そうしたら、気持ちが随分楽になりました。

私は2004年に結婚を機に名古屋から飯舘村に移住して、2000年に東京から移住し自然卵養鶏を営んでいた夫、彰夫さんと共に農的暮らしを始めました。4年前、彰夫さんを癌で喪ってからは、移住仲間の友人たちに助けてもらいながら森に囲まれた家で一人暮らしてきました。
彰夫さんは最期の9日間をこの家で過ごし、ここから旅立って逝ったのですが、病院から戻り「ここは天国だ」と何回も呟き、末期癌であったにも関わらず、痛みで苦しむことなく穏やかな日々を送ることができました。たとえ放射能に汚染されていても、ここは私にとって、彰夫さんの魂が宿る「天国」であることに変わりはないのです。喪失の苦しみの中、私はこの場所の自然の美しさに癒され、厳しさに鍛えられてなんとか壊れてしまうことなく生き抜いてきました。

もしも、大切なこの場所からこんな絶望的な気持ちのままで離れてしまったら、私の心は壊れてしまうだろうと思いました。原発事故なんかによってこの場所を追い出され、心が壊れてしまって堪るものかと思いました。低線量の放射能によっても数十年後に癌のリスクが高まるということは事実なのかもしれませんが、私にとっては放射能のリスクよりも、かけがえないものを喪うことにより心が壊れてしまうことの方がよほど恐ろしいのです。心が壊れてしまったら、いくら身体が健康でも人は生きていくことができなくなってしまうからです。
私の地区は村の中でも線量が高い方(現在、公式発表では飯舘村は2.5μシーベルト前後だが、うちの玄関前で8μシーベルト)なので避難解除が遅れる可能性が高いのですが、村の一部でも避難解除になったら帰って来たいと思っています。

「田んぼビオトープ」には、放射能に汚染されているにも関わらず、今年もカエルもトンボも蛍もみんな、みんな生まれて来てくれて、鴨の家族が暮らし、アオサギやカワセミがやってきています。小さな生き物たちは逃げもせず、戦いもせず、あきらめもせずに、いつもと変わらない日々を生きています。私は毎週末、飯舘のわが家に帰り、放射能汚染を超えるいのちの世界に触れることで深く癒され、励まされ、生きる力をいただいています。私の目の前の愛する我が家の風景から放射能は消えてしまいました。存在するけど存在しないのです。

最近、「放射能は少量でも非常に危険だ。福島の多くの場所は人も住めないくらい汚染されている。チェルノブイリよりも深刻だ。」というような論調が増えているように思います。それは事実なのかもしれませんが、少しでも、ここ福島で不安を抱えながらも生きている私たちのことを考えて発言しているのだろうかと思ってしまいます。政府や東電を糾弾し、原発を廃止するために、殊更に放射能への恐怖を煽り立てるような書き方をして、私たち福島県人の苦しみを利用しているようにさえ見えます。
恐怖を煽り立てれば、みんながこの事故を自分事として考え、原発廃止につながっていくのでしょうか。私は、恐怖を煽り立てれば立てるほど、人は目を背け、自分事として考えられなくなっていくような気がします。

今、私を一番支配している感情は、放射能への恐怖でも、政府や東電への怒りでもありません。我が家から引き離され、友人たちと引き離されてしまったことの哀しみ、多くのペットや家畜が犠牲になったことの哀しみ、大切な土地を汚してしまった人間の一人としての哀しみです。
こんな哀しみを背負うのは、もう私たちで終わりにしなければと、強く思っています。

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名古屋巡礼 2011.12

 11月19日から22日まで名古屋に里帰りをしました。彰夫さんが亡くなる一年ほど前に帰ったきり一度も帰っていなかったので、6年弱ぶりの名古屋でした。震災後、心配し続けてくれている家族や友人たちに元気な姿を見せて安心してもらうことが一番の目的でしたが、21日の夜には「うつくしま福島復幸プロジェクト」という、名古屋のみなさんが立ち上げてくださった、福島を応援する会が主催して、名古屋大学環境学研究科准教授の高野先生とのトークライブを企画してくださいました。先生は地球物理学者でいらっしゃるのですが、2001年から地球環境の研究を始められ、地下資源が枯渇した1000年後でもやっていられるような、地球と社会のシステムを作り出すための「千年持続学」を構想されています。
震災後、5月、7月、11月の3回に渡って、ご自分の専門分野を生かして支援できることを探るために福島を訪れていらっしゃるのですが、その都度、飯舘村の我が家に来て下さって、対話を重ねてきました。そもそもこの本は、「アレクセイと泉」の上映会に寄せた私の文章を読んだ先生が、編集者の大野祐子さんに紹介してくださって実現した企画なのです。
 先生はブログ「だいずせんせいの持続性学入門」に福島での経験を書き続けておられるのですが、二回目の飯舘村訪問記の最後に次のように書いてくださいました。

日が傾いてくると、ヒグラシが鳴きはじめた。四方八方からその鳴き声がふりそそぐ様を、麻里さんは「ヒグラシシャワー」と呼ぶ。今回は、これを聞きに帰ってきたのだという。彼女は、森の中でしばし、じっと体全体で、ヒグラシシャワーを受け止めていた。その姿は、森とひとつになろうとしているようだった。
 「遠くからわざわざ来てもらったのに、何をしに来たのかわからないわね」と麻里さんは笑う。飯舘訪問は、実は、私たちにとっても、聖地への巡礼なのだ。ヒグラシシャワーを静かにあびながら、私はそう気がついたのである。

 私は先生のこの文章を読んだとき、自分が毎週末飯舘村に帰り続けることの意味が明確になったと感じました。私にとっても、飯舘の我が家に帰り、自然に抱かれ、生き物たちに出会うことは巡礼に他ならないのだと。
 さて、私は事前の打ち合わせのために先生へ送ったメールに次のように書きました。

みなさん、私のことを大変な目に遭っている被害者と思って、何か言ったら失礼になるんじゃないかと、腫物を触るように扱われるかもしれませんね。私は被害者ではないので、対等な立場で語り合いたいと願っています。そのことが伝わるといいなあと思います。

 福島で起こっていることは特別なことだと思われてしまうと、自分のこととして考えてもらえなくなるから、みんなが引いてしまうような語り方だけはするまいと思っていました。けれども、気が付けば私は熱弁をふるっていました。この8か月の間に心の中に積もりに積もった、哀しみや苦しみをぶちまけている自分がいました。あーあ、やっちまった!と思い、自己嫌悪に陥りました。それでも、自分の話しが暴走しているかもと思うと先生に話しを振り向けて、フォローしていただくようにしたからまだよかったのです。もしも一人で話していたらどうなっていたかと思うと空恐ろしくなります。対話という形式のありがたさを痛感しました。
 19日の夕方、久しぶりに名古屋駅に降り立って、クリスマスシーズンが近づいて華やいだ雰囲気の漂う、美しくリニューアルした駅ビルの中を、人ごみに揉まれながら歩いていたら、まるで自分が遠い星からやってきた異星人のように感じてしまったのです。ここで「私は福島県の飯舘村から来ました。みんな福島で何が起こっているのかわかっているの!」と叫んだらどうなるだろうか、なんて妄想が浮かんだりしました。この時点で、私は自分と名古屋の人たちを、異質なものとし分けてしまったのだと思います。阪神大震災のとき、私は全くの傍観者だったにも関わらず、名古屋の人たちはあまりに傍観者すぎるんじゃないの!と批判してしまったのです。
だから、私はとにかく、福島で何が起こっているのかわかってもらわなければならないという使命感に燃えてしまって、熱く語ってしまったのだと思います。もしかしたら、多くの福島の人たちが、県外に行くと同じような経験をされているのではないかと思います。

 そんなわけで、みなさんと対話する時間はほとんどなく、最後に数人の方に感想を述べていただいたのですが、その中の一人の女性に「眉間にしわを寄せてすごく辛そうに語っていらっしゃる様子を見ていて、逃げないと決めて福島で暮らしていると言っていましたが、今後、福島で何をしていきたいと思っていらっしゃるのだろうかと思いました」という感想をいただきました。彼女はきっと私の辛い話しを聞いて、辛くなってしまったのだろう、そして、どうしてそんなに辛いのなら逃げないのかと思われたに違いないと思いました。その場では「福島で暮らすことは苦し楽しいんです。」なんて、少しでも彼女の気持ちが楽にならないかと思って冗談を交えて答えたのですが、私はなぜ福島に残っているのか、今後も福島で生きて行こうと思っているのか、あの場ではきちんと答えられなかったので、ここに書いてみたいと思います。
 なぜ福島に残っているのかと聞かれれば、「運命だから」という答えが一番しっくりくるように思います。思えば、彰夫さんを喪って一人になってしまったときも、運命としか言いようのない、目に見えない力が働いて、私は飯舘の森の中に留め置かれてきました。今回もそんな力によって留め置かれているという感じなのです。その力に抗ってまでも避難しようという理由が私にはないのです。それに、彰夫さんのときもそうでしたが、私の場合は、避難することによって心が壊れてしまうに違いないという確かな予感があるのです。フランクルの次の文章に、私がなぜそう思うのかとてもわかりやすく説明されていると思うので、少し長いですが引用します。

 人間の心は、ある意味では、丸天井のような反応を示すように思われます。がたがたになった丸天井は、重荷を載せることで支えることができます。人間の心も、すくなくともある程度まで、ある範囲までは、「重荷」を担うことでかえってしっかりするように思われるのです。そういうわけで、とてもたくさんの弱い人間が、強制収容所に入ったときより良好な、いわばしっかりした心の状態で収容所を出ることができたのもうなずけるでしょう。
 けれども、ここで同時にわかります。解放、つまり収容所からの解放は、囚人がずっと受けてきた重圧が突然取り除かれるということですが、まさにこの突然の解放そのものが心を危険にさらすのです。このことを私はいつもいわゆる潜函病になぞらえてみることにしています。つまり。水面下の高水圧で作業をする人は、通常の気圧のところに戻るとき、けっして急に戻ってはならないのです。かならず徐々に戻らなければならないのです。そうしないと、きわめて重い身体症状があらわれるからです。(前掲書より)

 私は彰夫さんを喪ってから5年以上が過ぎてやっと名古屋に里帰りできる心理状態になることができました。彰夫さんを喪った悲しみは一人で背負う以外道はなく、がたがたの丸天井のようになってしまった心をぎりぎりのところで支えていたので、それが壊れてしまうことが恐ろしくてどうしても名古屋に帰ることができませんでした。
 今回も、私はこの悲しみや苦しみから突然逃れるよりも、福島とともに、徐々に回復していく道を選んだのです。そうしたくてもできずに、突然、何事も起こっていない他県に避難して、苦しんでいる避難者のみなさんが多くいらっしゃるのではないかと思います。もしもどうしようもなく落ち込んでいる方がいたら、そうなるのは当然のことなので、どうか自分を責めないで、同郷の方など、同じ境遇に置かれた方たちと語り合っていただきたいと思います。周りのみなさんも避難者がどんな心理状態に置かれているのかを少しでも理解していただけたらうれしいです。

 このことは、復興ということを考える上でも非常に示唆を含んでいるように思います。私たち被災者の多くが、震災直後から叫ばれ続けている「がんばろう日本」であるとか、「つながろう」「きずな」などの言葉と共に急がれる「復興」の動きに全く着いていくことができず、置いてけぼりを食っているかのように感じてしまうのは、私たちにはもっと回復していくための時間が必要だからです。そのことを考慮したうえで、復興計画を進めていただかないと、ますます私たち被災者の心は壊れていってしまいます。
 さて、もう一つ、私が福島に残った理由があります。不謹慎だと思われるかもしれませんが、「せっかくこんな得難い体験をさせていただいているのに、避難したらもったいない」と思っているからです。何度も書きますが、それは私に子供がいるとか、仕事を失ってしまったなどの避難しなければならない明確な理由がないから言えることなのですが。避難せざるを得ない人たちに代って、自分は残ってここで起きていることを記憶に刻みこんで、魂の奥底から言葉を発して伝えていきたいという気持ちがあります。そして、こうして書いているのです。
 私は阪神大震災のときも傍観者だったのですが、これまで世界でどんな悲惨なことが起こってもずっと傍観者できました。ところが、今回、自分が放射能を浴びて避難民という立場になって初めて、チェルノブイリのこと、パレスチナのこと、アフリカのことなどが、身近に感じられるようになったのです。同じような立場になってしまったことは不幸なことなのかもしれませんが、連帯意識を持つことができるという意味で、喜びのようなものを感じているのです。それに、パレスチナやアフリカのみなさんに比べれば、こんなにも自由で食べ物がいっぱいあって、避難民とはいえ恵まれている生活を送っている自分のことを、不幸だなんてとても思えないという気持ちも湧いてきます。もちろん、原発事故によって、家も仕事も失って路頭に迷うような目に遭っていらっしゃる方たちも大勢いらっしゃるので、そういう方たちを政府はもっと手厚く支援してほしいと思います。まだまだ漁業、農業、林業、そして自然への配慮が足りなすぎると、そのことに関しては私も憤りを隠せません。第一次産業に最も配慮しないでは、この国の、東北の未来はないと思います。復興のために新しい産業を興すことも大切でしょうけれども、第一に、第一次産業の復興と自然の復興を考えていただきたいと思います。それこそが真の復興なのではないでしょうか。

 話がどんどん逸れていってしまいました。今回名古屋へ里帰りし、高野先生とトークライブをさせていただいたことで、また多くの気づきがありました。福島へ帰ったらしばらく倒れてしまうのではないかと思うほど、話しをした後はものすごく消耗したのですが、けれども思いの他次の日から元気を回復し、こうして書くこともできています。
 私は語ることで、みなさんが真剣に聞いてくださったことで、カタルシスになったのではないかということに気が付きました。つまり、一方的に私が語って、みなさんはじっと聞いてくださっていただけなのですが、聞いてくださるという行為によって、みなさんは私にエネルギーをくださったのです。私は癒されたのです。高野先生は福島へ来ることを“巡礼”とおっしゃっているのですが、私にとって今回の名古屋行は“巡礼”であったと思います。故郷名古屋の街の喧騒にはもう身体がついていけませんが、人の心の温かさに触れて、やはり故郷っていいなあと思いました。

高野先生はブログに次のように書いてくださいました。
そして、私たちは、彼女の話にじっと耳を傾けるしかない。安易な質問やコメントはできない。それが、今のこの段階に必要な、コミュニケーションの形だと思う。私たちは「聞き取る」使命を与えられている。それをただ果たすのみである。今日の参加者のみなさんは、辛抱強く、その使命を果たされたと思う。
 このような真摯なコミュニケーションを積み重ねる中で、誰もが同じ地平にいることが体感された段階で、フクシマの中と外にいるものの間に、自然に対話が可能になってくるだろう。それは人間どうしだけでなく、他の生き物や、石や、風や、さらには放射能そのものとも。その時が来るのを楽しみにしながら、じっと耳を傾けたいと思う。

 先生が書いてくださっているように、いつか、私が一人で熱く語る必要がなくなって、みなさんと普通に対話できる日が来ることでしょう。その日までは、(また、やっちまった!)と後悔しながらも熱く語ることを何回か繰り返す必要があるのかもしれません。
原発事故による放射能汚染という、この終わりのないような悲惨な出来事の中で、壊れてしまうことなく生き抜いていくためは、人と出会い、心を開いて対話することを、あきらめずに続けていくことが大切であると確信することができた、今回の名古屋への里帰りの旅でした。
 会を開いてくださったみなさん、話しを聞いてくださったみなさんに心から感謝していることを、この場を借りて伝えたいと思います。またみなさんと出会うことができたなら、今度はみなさんの話しを聞きたいと願っています。
 さて、ここまで書いてきて、私が福島を離れない一番の理由を書き忘れていることに気が付きました。私が福島を離れないのは、福島が好きだからです。福島の自然が、山が川が、里山の風景が、そこに暮らす人々が、やさしい東北の言葉が好きだからです。
 先は全く見えない避難民生活が、これからどれくらい続くのかわかりません。辛くてすべてを投げ出してしまいたいと思うときもあると思います。けれども、私はここ福島で、美しい里山の自然に抱かれながら、身近な人たちとの暮らしを大切に、出会いと対話の奇跡に感謝して、そして、飯舘村の我が家の自然と生き物たちとのつながりを深く感じながら、一日、一日を生きていきたいと思っています。

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う・ふ・ふプロジェクト

福島が福の島となる日を
願って活動しています





















*バイオディーゼルの山田周生さん
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*被災地のローソクになろう
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*生きていく場を考えよう
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までいな村の過ぎし日のひとこま